

ふし穴サイズ調整自在装置の説明をしておきます。
構造は至ってシンプル。窓枠に溝を掘った別の枠を取り付け、溝にはめ込んだベニヤ板をスライドさせて穴の大きさを調節する。
ただ、この場合、横方向には簡単に動くが、縦方向は大きなベニヤを支えるための押さえが足りず、最終的には人力に頼ることで治まった。つまり常に誰かが押さえているという状態(笑)。
たわむベニヤ板の隙間から光が漏れてくるので、あまり良い実験結果が得られないのではないかと危惧したが、そんな心配も何のその、とびきり美しい映像にお目にかかることができた。
既製品に慣れている私たちは、つい、何でもすでに完成されたスキのないものでないとダメなんじゃないか?と、思ってしまいがちだけれども、立派なものではなくても、自分の手で作りだすことが大切だということを教えられた気がして、(実験の趣旨とは異なるのだが)これも今回の収穫のひとつとなった。
要は、厳格でなければいけないポイントさえ押さえれば、あとは好みや主義の問題であり、瑣末な部分というふうに解釈してもいいということだ…極論だけど。
話がそれたが、ふし穴サイズ調整自在装置…インスタント・カメラも同じピンポイントの原理を利用しているという、つまり「針穴式カメラ」だ。その構造を聞いたとき何の疑問も沸かなかったのだが、こういう現象を目の当たりにすると、やはりとても不思議なことだと思えてくる。
そう言えば、昔の(西洋の)風景画家も同じような装置を利用していたんだよね。昔といっても風景画の歴史は浅く、遠近法に基づく風景画が描かれ始めたのがルネッサンス(14~15世紀)頃で、もっと写実的な風景画となるとその後になる。
私が昔観た映画の中で(何というタイトルだったかな~?)、主人公の画家が、(野外用だからもっとコンパクトだったが)これと同じような装置を使って海に浮かぶ帆船をキャンバスに投影し、トレースしていた。「何だ、ずるいじゃんか」と思ったのを覚えている…確か16~17世紀頃のお話ではなかったかと記憶している。
教室でも数年前にこれと似た実験をやった。そのときは片側にロウソクを立てて、真ん中に穴の開いた衝立を、対称にスクリーンを据えた。そしてローソクの前に置いた茶瓶を投影したが、これも見事にクリアな像で、たいそう驚いた。
ただしローソクでは光量が足りないので、穴にはレンズがはめ込まれていた。…私たちの目の構造も似ているんだけど、レンズの場合は焦点を結ぶことによって像を映し出し、針穴の場合は無焦点である(=焦点を結ばない)にもかかわらず像が投影される、そういう違いがあるという。
そうすると、これらは似たような現象なんだけど、根本的に大きな違いがあるということに気づくし、やはりひどく不思議なことだと思えてくる。
昼間、遮るものもなく太陽の光がさんさんと降り注ぐ場所には、無限の光の筋が射し込んでいるとイメージしてみる。
ray…ひとつひとつの光の筋は、それぞれ唯一の場所にあることで、固有の風景(像)を含んでいる。その場所から見え得る全ての世界を映し込むという点では、渦の泡や水玉と同じように。
beam…でも通常、それら光の筋は束になっているので、無数の像は全て折り重なって完全に白けている。
それが何らかの堰によって遮られ、光は、ピンポイントの穴か、もしくは細いスリットの部分だけをかろうじて通過できる…というシチュエーションに変わる。
そのとき、光は制限されたことによって、逆に一つの道を与えられたと言える。だから固有の像を映し出すことができた。
レンズを通して焦点が結ばれた結果、生まれる像がある。焦点を結ぶということは、事物の意識化が行われたということ。
一方で、混在していて見えないけれど本当はクリアに存在している像が、ある条件を与えられたことによって、たまたま現れる場合がある…これは無意識の領域に近いような気がして、カラクリを知らなければちょっと不気味な体験かもしれない。
人々が「個別意識」というものを強く持つようになったと言われる現代。個別化はさらに加速度を増しているように思える。…が、そもそも「意識」とはどのようなものなのか?観念からのみ、そこに光を当てることは難しい。
自然現象の中には、そのような問いに対する客観性を失わない答えが、密かに存在している。…井手氏が伝えたかったのは、まさにこのことだった。
しかし今回は、大きな謎が生じたままだ。太陽光線は並行光線であるにもかかわらず、穴を潜り抜ける瞬間にその性質を変えた。新たな点光源となって放射状に広がるのは何故…?
2007/10/11 Gaon